東京地方裁判所 昭和48年(ワ)2062号 判決 1974年6月17日
原告 奥野寛一
被告(亡広瀬伊蔵訴訟承継人) 広瀬一茂 外二名
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求める裁判
一 請求の趣旨
1 被告広瀬一茂は原告に対し、別紙物件目録(二)記載の建物から退去し、かつ同目録(三)記載の建物を収去して、同目録(一)記載の土地の明渡をせよ。
2 被告広瀬シゲミは原告に対し、別紙物件目録(二)記載の建物の収去による同目録(一)記載の土地の明渡をせよ。
3 被告有限会社広瀬金属工業所は原告に対し、別紙物件目録(二)および同目録(三)記載の各建物から退去することによる同目録(一)記載の土地の明渡をせよ。
4 訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
5 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 原告は、訴外亡広瀬伊蔵・被告広瀬シゲミに対し、昭和三七年六月一八日成立した右当事者間の東京地方裁判所昭和三五年(ワ)第一〇七三九号建物収去土地明渡請求事件の和解調書に基づき、自己所有の別紙物件目録(一)の土地を左記の条項により賃貸した。
(一) 賃貸借期間 昭和五八年五月一日まで。
(二) 賃料 昭和三七年六月一八日から昭和三八年一二月三一日まで一箇月金一三六一円、昭和三九年一月一日から一箇月金一五八八円。但し、当事者の協議により改訂することができる。
(三) 賃料支払方法 毎月末限り持参払いのこと。
(四) 賃料の支払いを五箇月分怠つたときは、催告を要せず契約を解除することができる。
2(一) 右賃料は、当事者の協議により昭和四〇年五月一日から一箇月金一六〇〇円、さらに昭和四七年二月九日、昭和四六年七月に遡り一箇月金五〇〇〇円と改訂された。
(二) しかるに、訴外亡広瀬伊蔵・被告広瀬シゲミは、昭和四七年七月分から同年一二月分までの各賃料支払期日を徒過した。
(三) 原告は、訴外亡広瀬伊蔵・被告広瀬シゲミに対し、昭和四八年一月九日差出した書面により右賃貸借契約を解除する旨の意思表示をなし、そのころ右書面は被告らに到達した。
3 被告広瀬シゲミは別紙物件目録(二)記載の建物を、訴外亡広瀬伊蔵(昭和四九年二月一一日死亡)の相続人である被告広瀬一茂は同目録(三)記載の建物を、それぞれ原告所有の同目録(一)記載の土地上に所有し、被告有限会社広瀬金属工業所および同広瀬一茂は同目録(二)(三)記載の建物を使用し、右土地を占有している。
4 よつて、原告は、被告広瀬一茂・同広瀬シゲミに対しては賃貸借契約の解除に基づき、それぞれ本件各建物の収去による土地の明渡を、被告有限会社広瀬金属工業所に対しては本件土地の所有権に基づき、本件各建物から退去による土地の明渡を、求める。
(ちなみに、被告広瀬伊蔵は本件訴訟係属後死亡し、共同相続人全員の遺産分割協議により、別紙物件目録(三)記載の建物およびその敷地賃借権を取得した広瀬一茂が故伊蔵の被告の地位を承継したものであるところ、厳密には、同目録(二)記載の建物から退去して同目録(一)記載の土地を明け渡すべき義務については、少なくとも裁判所に提出せられた昭和四九年四月一日付遺産分割協議書の文言からは、分割協議の有無が明らかでないが、原告の訴旨および右の訴訟承継に関する口頭弁論の全趣旨に鑑み、右退去明渡義務を含めて本件訴訟に関しては故伊蔵の権利義務の一切が一茂に単独相続されるとの趣旨で、右分割協議がなされたものとして扱うこととした。)
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1は認める。なお、訴外亡広瀬伊蔵・被告広瀬シゲミは、昭和二八年四月、本件土地を訴外鈴木精八から普通建物所有のため賃借したものであり、原告は、昭和三五年に本件土地を買受け、昭和三七年の本件和解により本件土地賃貸借を確認したのである。
2 請求原因2(一)(二)(三)および同3はいずれも認める。
三 抗弁
1 本件和解条項中の無催告解除特約は、原告が、右特約の要件を満す被告側の遅滞に対し、その回数が後記のとおり多数回に及んでも何らの苦情も言わず黙認してきたことにより、黙示の合意または慣行により失効したと解すべきである。
(一) 昭和四一年四月一八日支払 昭和四〇年一一月分から昭和四一年四月分まで(六箇月分)
(二) 昭和四一年一一月二日支払 昭和四一年五月分から同年一〇月分まで(六箇月分)
(三) 昭和四三年四月一七日支払 昭和四二年一二月分から昭和四三年五月分まで(六箇月分)
(四) 昭和四三年八月五日支払 昭和四三年六月分から同年一一月分まで(六箇月分)
(五) 昭和四四年四月八日支払 昭和四三年一二月分から昭和四四年五月分まで(六箇月分)
(六) 昭和四四年七月五日支払 昭和四四年六月分から同年一一月分まで(六箇月分)
(七) 昭和四五年四月二一日支払 昭和四四年一二月分から昭和四五年五月分まで(六箇月分)
(八) 昭和四六年一〇月八日支払 昭和四六年六月分から同年一一月分まで(六箇月分)但し、賃料改訂のため送付した六箇月分の賃料は、新賃料の一部として昭和四六年六、七月分として充当されてしまつた。
2 被告広瀬シゲミ、訴外亡広瀬伊蔵は、賃料が月額金五〇〇〇円に改訂される前は、三ないし六箇月まとめて一括して原告に賃料を支払つており、原告もそれを少しも苦情を言わずに受領していたのであり、しかも昭和四七年六月ころからは本件土地の買受け交渉まで始まつていたのであるから、この程度の賃料不払いは信頼関係を破壊するような重大なものではない。しかも、被告ら側は、零細なプレス工場を営む一庶民であり、もし明渡すことになると生活が破壊されるのに対し、原告は期せずして土地転売による巨万の富を得るという社会正義上許容できない結果になるから、本件解除は信義則上許されない。
3 被告有限会社広瀬金属工業所は、訴外亡広瀬伊蔵(同人死亡後は被告広瀬一茂)・被告広瀬シゲミの経営している零細なプレス工場である。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁1のうち、右特約の要件を満した場合があり、その際、解除の意思表示をしなかつたことのみ認め、その余は否認する。右特約の要件を満したのは、昭和四〇年一一月分から昭和四一年三月分まで(五箇月分)、昭和四一年五月分から同年一〇月分まで(六箇月分)、昭和四二年六月分から同年一〇月分まで(五箇月分)の三回のみであり、その際、原告が無催告解除権を行使しなかつたのは、原告が好意的にその行使を差し控えたか、行使する前に賃料が支払われたのでその行使を宥恕したことによるものであり、そのために原告が無催告解除特約の失効という不利益を受け、誠実な履行を怠つていた被告らが利益を受けるのは不当である。
2 抗弁2は否認する。但し、買受けのため多少の交渉があつたことは認めるが、到底妥結しそうもなかつたものである。プレス工場を営んでいる点は不知。
3 抗弁3は不知。
第三証拠<省略>
理由
一 請求原因事実はすべて当事者間に争いがない。そこで抗弁につき判断することとする。
二 成立に争いのない乙第一ないし第六号証の各一によると、抗弁1記載の、(二)(乙一による)、(三)(乙二による)、(四)(乙三による)、(五)(乙四による)、(六)(乙四による)、(七)(但し、日時は昭和四五年三月二一日と訂正する)(乙五による)、(八)(乙六による)の弁済および充当のなされたことが認められ、右(二)の事実と乙第一号証の一の記載からは同(一)も推認しうる。そして、以上認定の諸事実に、昭和四〇年一一月から昭和四一年三月、昭和四二年六月から同年一〇月の各五箇月分も一旦遅滞後一括支払により弁済された旨原告が自認している事実を併せ考えると、遅くとも昭和四〇年末ころから以後は、たまたまそのころ賃料額が月一六〇〇円(昭和四〇年五月から昭和四六年六月まで)であつたという当事者間に争いのない事情もあつて、被告側では月々にその支払いをするのを煩瑣とし、六箇月分を一括して金一万円として送金し、原告側でも、これを少しも異とせず受領して経過分の未払賃料に精算充当し、残り(六箇月分ごとに四〇〇円)は将来分として預つたり、その都度返金したりするのを例としていた、と推認することができる。そして、昭和四六年七月以後月額五〇〇〇円に改訂されて後も、何箇月分かまとめて後払いする仕方が廃絶されなかつたことは、例えば成立に争いのない乙第九号証によつて昭和四七年三月から同年六月までの四箇月分二万円が同年六月二二日に一括して支払われたと認められることから、推認しうるところである。
三 さて、原告が本件で催告なしに解除したのは、請求原因1の条項(四)の条件が成就したからである。被告らは右条項が失効していたと主張するのであり、なるほど、五箇月分の延滞による条件成就-原告側の解除権不行使-延滞分の一括支払とその無留保の受領による解除権消滅、という事態が前節認定のように数年間継続して繰り返されて来たことは、和解当事者の右条項に関する規範拘束の意識を次第に緩和させ、被告(伊藤を含む)側としては、五箇月延滞しても無催告のまま直ちに解除されることはない、という期待をいだくようになつたとしても無理からぬものがあつたとは思われる。しかし、賃貸借当事者間に存した信頼関係が破壊され、収去明渡訴訟が起されて後いわゆる訴訟上の和解が成立した場合には、その条項における懈怠約款は、いわば一旦破壊された信頼関係が回復される限界を示す意味合いを有するのであつて、普通に賃貸借契約が成立した際の同趣の文言よりも厳格に解釈されて当然であるし、また、原告側に解除権不行使があつても、それは原告が自発的にいわば恩恵として猶予したに過ぎない、と見る余地もある以上、不行使の事態が繰り返されたとしても、右の被告側に生じた期待はまだ権利というには遠いものであり、和解調書における懈怠約款である条項(四)が効力を失うと解するのは行き過ぎであろう。ただ、右のような事態の長年月の繰返しにより、和解当時には条項(四)の条件成就即信頼関係の破壊という建前であつたものが、前記のような期待を被告側に生じるのも無理からぬものとなつた度合に応じて、直ちに信頼関係の破壊とは言えないようになつた、それだけ当事者間の信頼関係が回復された、と評価することは可能である。
四 ところで、本件で解除の理由とされた未払賃料六箇月分の最初の月に相当する昭和四七年七月は、訴外広瀬伊蔵から原告に対する本件土地買入れの申入れがなされたころであることは当事者間に争いがなく、その後の交渉の経過が原告主張のように売買妥結の方向に動いていたが、被告主張のように見込みないものであつたかはさておき、この七月から始まつた延滞分については、この申入れのあつたことも無視できないであろう。右の事実と前節に見た信頼関係のある程度の回復とを併せ考えると、条項(四)が失効したわけではないが、原告としては、本件解除の意思表示に先立ち、一応催告するのが信義則に合致した行動であつたというべきであり、結局本件の情況下における原告の無催告解除は信義則に反した権利の行使として、その効力を生じなかつたと断ずべきものである。故に、被告広瀬らに対する請求は理出がない。
五 次に、被告会社の抗弁3について案ずるに、本件建物の登記簿上の表示と現況(特にその床面積)とが別紙物件目録(二)および(三)のとおりであることは当事者間に争いがなく、このことと成立につき争いない甲第五号証により資本金六〇万円の有限会社であり、取締役は広瀬伊蔵一名のみと認められること、および口頭弁論の全趣旨を併せ考えると、被告会社は、経営者である亡広瀬伊蔵の一家と密着した典型的な町工場であると認められる。更に、右甲第五号証により会社設立は昭和三五年五月二日と認められることと、前節までに見て来た本件賃貸借契約の推移および右の業態を併せ考えると、当初の契約上、また和解上の賃借人が広瀬伊蔵・広瀬シゲミであつて、被告会社の名がなかつたからといつて、被告会社に対し、他の両被告と異なつて賃貸借契約の終了に基かず、所有権に基づいて立退き明渡を求める原告の請求は、信義則に反するものがあるとせねばならない。被告会社は被告広瀬らの賃借権を援用しうる立場にあるので、前節に見たとおり被告広瀬らに対する請求が失当である以上、被告会社に対する請求も理由がないというべきである。
六 よつて、訴訟費用は敗訴の当事者である原告に負担させることとして、主文のとおり判決する次第である。
(裁判官 倉田卓次 並木茂 有吉一郎)
別紙 物件目録(一)~(三)<省略>